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分かったふりして年月が過ぎて歳をとった感じですが、親鸞の問いは一時避難地帯になります

目にとまった親鸞が言った言葉

問う 大本の三心と 観経の三心と 一異いかんぞや

本願の名号に出てくる三つの心と観無量寿経に出てくる三つの心は同じなのか
と問うもの
仏教の本を読んでいると不思議と納得できるものが沢山あります

「この三心は同じもの」 と親鸞が尊敬していた法然上人が答えを出していましたが、あえて親鸞は問うてみたということです

実社会でも、特に仕事上では自分が尊敬する師、先輩、上司、友人から「これはこうこうこう訳で同じだよ」と教えられたら、なぜ同じものなのかと考え自問自答し 『同じものだ』とします 私はしました
尊敬する師の仕事上での考え方や やり方、進め方を言葉だけでなく背中を見て教えてもらったことは深く根付き、精神的な支えにもなり、アプローチの基本になってることってあります
だから、「これはこういうモノだ」という考え方だとするわけです


私には不思議だなと思うことがありました
仕事で行う会議やミーティング
お同じ言葉を、同じ空間で、同じ時間帯に聞いていて、その後方針が決まり会議が終わります 普通の会議です
そして、よく経験することですが、会議が終わった後、長々と意見の交換をする人たちを見かけます
その場面は必ず、上司などが居なくなった後に開催されます
けっこう白熱した立ち話になります

これも、個人的には無駄な行為と言いますか、なんでそれ必要なのか?といつも不思議に思ってました
『意見があるならその時言えばいいのに』と
意見をしなかったのは、言えない空気だったのを含めて黙認という納得をしたのだから
違法行為やそれはだめでしょってこと以外は、とそう思います
言いたいことがあるなら少し動いてからのほうがいいのに

しかし喋っている人は、言いたいんですよね、釈然としない部分があるんでしょうね
分かってるんだけど、いまいち乗り切れない
乗り切れないから、本気で打ち込めない
乗り切れないから私情を挟み込んで、自分が頑張れるように仕向けて自分を奮い立たせる
その人も、その人なりの覚悟をもって行動しようとしてるから

 

One of these days

 

上人の世界でも、師と仰ぐ人からの教えを聞いている同朋同士で受け止め方が違うのを見て、親鸞はあえて前述の言葉で問いたのだといいます
同じ仲間同士でも違って捉えているから、意味を限りなく読み解くためには話し合いを重ね続けることだと、問いによって言っています

個人的な理解能力の程度だと思いますが
ビジネス書でコミュニケーション論とか会議論で同じようなことを学んでも
その時限りが多く、分かったふりして年月が過ぎて歳をとった感じですが、親鸞の問いは不思議と腹に落ちます

 

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