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トルシエジャパンを支えたフラットスリー。チームメイトからイジられまくる愛されキャラ【中田浩二】

こんにちはー。
最近サッカー日本代表の試合が数多く見られて嬉しいです。
熱い試合もそうですが、試合翌日ともなると様々なサッカー関係者のコメントがニュースサイトなどでも見られます。
そこには元日本代表選手といった懐かしい名前を見ることができてそれもまた嬉しいです。
今日は元サッカー日本代表の名選手について書きます。

現・鹿島アントラーズCRO【中田浩二】

Jリーグ鹿島アントラーズにて長きに渡り活躍した中田浩二さん。
現役引退後は鹿島アントラーズのCROに就任して現在もチーム関係者として職務にあたっています。
CROとはクラブ・リレーションズ・オフィサーのことで、クラブ運営にあたり連携が必要な協賛企業・団体や行政機関、さらに地元市民などの利害関係者とチームをつなぐことを目的とし、クラブ運営をサポートする責務を負うとのこと。
なんかややこしいですが、チームと企業・地域を繋ぐ役ってことですね。
ファンから愛された中田浩二さんらしいポジションだなって思います。

画像引用元 YouTubeより

中田浩二(なかた こうじ)
1979年7月9日生まれ(41歳)
滋賀県志賀町出身(現・大津市)
身長182センチ 体重74キロ

滋賀県志賀町生まれですが、幼少期は父親の仕事の関係で転校を繰り返しており、サッカーを始めたのは小学2年時に住んでいた横浜市とのこと。
小学3年時に鳥取県米子市へと引っ越し、中学時代までをそこでサッカー少年として成長します。
中学まではFWとして活躍し中国選抜にも選ばれたり、全国中学校大会にも出場する活躍をみせ、高校は強豪・帝京高校へと進学。
帝京高校では順調とはいかなかったが、ボランチへと転向し頭角を現すと3年時にはキャプテンとして全国高校サッカー選手権に出場し準優勝。
高校卒業後はJリーグの鹿島アントラーズに入団し、常勝軍団でレギュラーを獲得しリーグ優勝などにも貢献。
2005年1月には元日本代表監督のフィリップ・トルシエが監督をしているフランス1部リーグのオリンピック・マルセイユへとフリー移籍。
トルシエ監督の解任に伴い出場機会が激減してしまい、2006年にスイスリーグのFCバーゼルへと移籍しCBのレギュラーに定着。
2008年7月に鹿島アントラーズへと復帰すると、CB・ボランチ・左サイドもこなすユーティティー性を見せ、チームに貢献し2014年シーズン終了後に現役を引退し、現在の職に就くことになりました。
鹿島アントラーズにとってはなくてはならない選手・人だったんですね。
それでは現役時代のゴール集もどうぞ。

ポジション柄、セットプレーで高さを活かした得点が多かったのですが、左足からの長短のパスも素晴らしかった選手でしたね。

フラットスリーの一角

日本代表としても長くプレーをし、特にフィリップ・トルシエ監督の戦術であったフラットスリーと呼ばれる3バックシステムの左CBとしてのプレーが印象に残っています。
オリンピック代表としても2000年シドニー五輪にも出場。
A代表では2002年の日韓W杯、2006年ドイツW杯にも出場したほどの選手だったんですよ。
 

イジられまくった伝説の引退試合

2015年7月に開催された中田浩二・柳沢敦・新井場徹・合同引退試合が面白かったんです。
引退する選手にゆかりのある現役選手・OB選手が出場する試合では、引退する選手に華を持たせるためにボールを集めて得点を取らせるのが通常の流れ。
柳沢・新井場と順調に引退選手が得点を決めたのですが・・・
中田浩二選手だけは相手GKの攻守もあってなかなか得点ができないんです。
これには味方も相手チームも面白がってイジりまくり。
このやり取りが中田浩二選手の愛されキャラっぷりを物語っていますよね。

フリーキックの壁役も楽しそうでしたね。
最後はちゃんとPKで決めさせてくれて一件落着。
こんな愛されキャラな部分も現在の職に活かされてるんでしょうね。

 

忘れられない大雪の決勝戦

僕にとって中田浩二さんと言えば、忘れられない一戦があります。
それは第76回高校サッカー選手権決勝での東福岡高校VS帝京高校戦。
この試合は大雪でピッチが真っ白になる中で行われた伝説の試合。
後にアントラーズでチームメイトとなる本山雅志選手を擁する東福岡高校に敗れるも、真っ白なピッチ、黄色のサッカーボールと衝撃的な光景でした。

こんな悪天候の中でも行われるサッカーって凄いですね。

長々と書いてしまいましたが、今後も中田浩二さんのサッカー界での活躍を願っています。
それでは、またっ!


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