じわじわと受け入れていく
ゆっくりと道のりが下っている
若い時は、「積極的に」と言われてハッパをかけられていた
周りのみんなから、「ほどほどでいいよ」なんていう人は居なかったと思う
右肩上がりの景気だったから、ビジネスではそれが重要だった、みんながそうしてたし小学校の時も中学校の時もそうだった
通知表に、「もっと積極的に」というコトバをみんなが書かれていた
教室で手を挙げて発言をしないとそういう評価だった
それを書くのが、そうさせて競争させるのが担任教師の成すべきことのように
そんな学校のやり方に少しだけど違和感を覚えてたなあ
担任じゃない先生は、そんなことは言わなかった、そのヒトたちも競争してきたヒトたちだったろうに、それともその時代に教師になろうというヒトはそれなりの経済的な環境側面があるヒトたちだから競争がなく育ってきたのかも知れない
本当はそう思ってなかったからかも知れない
違和感を抱いてた先生もいたかも知れない
いまは、「アグレッシヴ」というコトバに置き換えられているような・・・
だいぶ前の働き始めたころは「能動的」にというコトバが流行ってた
その時々でニュアンスが違っているし、違っているのは求められるカタチが違っているからだろう
流行ってたというのもわざとらしいですが、「能動的」に対比して「受動的」はネガティヴな意味合いで使われることが多かった
そういう意味では、「積極的」よりは、今のアグレッシヴ・「攻撃的」という意味に傾いてきた時代だったんでしょうか
RISE
私は戦争を知らない世代ですが
戦後、経済成長を真面目に目指したやり方が「攻撃的」につながる「積極的」だったのは、つくずく人間は争いが好きな生物なんだなあと立ち止まってしまいます
今でも「この戦いに勝つ」というフレーズが商売にも受験にも病気やいろんなところで使われますね
ホントは共存したいのにって思っていると思うんです、心の奥の方では
みんなそう思っているのに
いったい生物を形作るどの成分がどうつながりあってそういう意識というカタチの無いモノになって行くのか知りたい
しかし、ある側面からみると、「能動的に動く」対象の「あること」はもうすでに存在してて、鳥になって見てみると・・・
(あっ私、鳥を見てるのが好きなんですが、毎朝 神棚のお米のおさがりをいただくときに会社の庭に来ている小鳥たちに五穀豊穣を願ってあげているんですが、この小鳥たちがまた可愛いいんです)
あることに対して能動的に動いていることは、反応的に動いてて、これって受動的な行動と言っていいんじゃないかと思います
受動的をネガティヴな意味で捉えていると「負け」のような意味になってしましますが、世の中、勝ち負けじゃないですよね
受動的に受け止めて解決策を探っていく、落としどころを考えていくのは生物本来の姿ではないかも知れないが、今はそれが求められている気がする