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侍ジャパンを金メダルに導いた稲葉篤紀監督の現役時代について

こんにちはー。
週末少年野球コーチのじょびスポです。
昨日の空港バッティングの話でもイチローさんと稲葉篤紀さんが通ったと書いたのですが、稲葉さんのことをブログに今まで書いたことなかったことに気づきました。
っということで、元ヤクルトスワローズファンな僕が紹介させていただきたいと思います。

ヤクルト・日ハムを日本一へと導いた男【稲葉篤紀】

東京オリンピック2020で侍JAPANを金メダルへと導いた稲葉監督。
苦しい接戦をチーム一丸となって勝利を掴み野球ファンを歓喜へと導いてくれました。
そんな稲葉監督が現役時代どんな選手だったのかをお伝えできたらと思います。

画像引用元 Wikipediaより

稲葉篤紀(いなば あつのり)
1972年8月3日生まれ(49歳)
愛知県西春日井郡師勝町出身(現・北名古屋市)
身長185センチ 体重94キロ

少年時代から隣町の豊山町にある空港バッティングに通い、同年代の左打者をよく見かけ『凄いなぁー』と感心していた。
その打者は後のイチローだったんです。
高校は中京高校(現・中京大中京)で3年夏の愛知大会決勝で、イチローを擁する愛工大名電高校に惜敗し甲子園出場は叶わなかった。
法政大学へ進学すると1年春から試合にも出場するも故障もありレギュラー定着したのは3年春から。
4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ優勝へと導く活躍を見せる。
1994年NPBドラフト会議にてヤクルトスワローズから3位指名を受け入団。
当時ヤクルトの監督だった野村克也さんが息子・克則の試合を観戦した際に対戦相手の法政大の稲葉さんのプレーを目にとめ獲得にいたったとの逸話も。
入団後に外野手としての練習を始め1995年6月21日にプロ初打席初本塁打を放ち、一年目は67試合で打率.307を記録します。
2年目からレギュラーへと定着し2004年シーズンまでヤクルトに所属し細身の身体から長打も打てる中心選手として活躍していました。

シュアなバッティングで走者をかえす素晴らしい選手でしたねぇー。

2004年オフにFAを使い2005年より北海道日本ハムファイターズへと移籍。
入団直後は日本ハムの「楽しむ野球」に何度も驚かされるも新庄剛志さんとともに主力として日本一へと導く活躍を見せました。
以降もチームの主軸として活躍を続け、稲葉篤紀さんと言えばファイターズと思われるほどファンから愛されていました。
2014年シーズン終了後に現役引退となりましたが、現役最終試合の後には対戦相手の福岡ソフトバンクホークスの選手たちも含めた両チームで胴上げされたのも印象的でしたね。

いつの間にかスワローズの印象よりもファイターズの印象の方が強くなっちゃいましたね。
現役引退後は野球解説者に就任しつつ2014年より侍ジャパンの打撃コーチを務め、2017年からは日本代表監督に就任。
日米野球、プレミア12などで監督を務め2021年に開催された東京オリンピックで金メダル獲得となりました!
野球ファンから愛される素晴らしい選手だったんですよー!
 

球場全体を揺るがす稲葉ジャンプ

稲葉篤紀さんを語る上で忘れてはいけないのが球場全体が一体感をもって応援する稲葉ジャンプ。
得点圏に走者を置いた状態で稲葉さんの打席を迎えると、ファンファーレを合図に一斉にファンが飛び跳ねるんです。

ファンファーレは2006年のシーズン前に私設応援団が制作した。当初は曲に合わせてメガホンを叩くだけのものだったが、春先にフルキャストスタジアム宮城(現・楽天生命パーク宮城)で開催された試合で一部のファンが寒さに耐えかねジャンプしたのがきっかけとなり、札幌ドームにおいても外野スタンドの一角からジャンプが発生、それがどんどん規模を増していつの間にか球場全体が飛び跳ねるようになった。
引用元 Wikipediaより

球場全体でファンが飛び跳ねることで震度3相当の揺れとなるとも言われています。
野球ファンならば一緒に飛び跳ねたくなりますよね。

めっちゃ楽しそうですよねーーー!
僕も一度、北海道出張の際に札幌ドームへ観戦しに行った時に一緒に稲葉ジャンプしてきました!
球場全体が盛り上がる応援って最高ですね。

今日は侍ジャパンの稲葉篤紀監督の現役時代について書いてみました。
シュアなバッティングでファンから愛された素晴らしい選手だったことが伝わったら嬉しいです。
それでは、またっ!



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