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ヤクルト新監督の高津臣吾の伝家の宝刀【一度浮き上がってから沈む魔球シンカー】

こんにちはー。
プロ野球のレギュラーシーズンが終わり各球団とも様々な動きがあります。
引退する選手、自由契約となってしまった選手、そして監督の交代。
悲しくもあり、楽しみでもあるシーズンオフに突入。
ってまだ、クライマックスシリーズと日本シリーズが残ってるんですけどね。

ヤクルトの新監督【高津臣吾】

実は少年時代はヤクルト・スワローズファンだった僕です。
古田敦也が入りチームが大きく変わろうとしていた頃。
そしてチームの全盛期を支えた守護神が高津臣吾さんでした。

画像引用元 時事ドットコムより

高津臣吾(たかつ しんご)
1968年11月25日生まれ
広島県広島市出身
身長180センチ 体重75キロ

広島工業高校時代には1986年春・夏と甲子園にも出場していますが、エースではなく控え投手兼一塁手としての出場。
高校卒業後は亜細亜大学に進学し、左の小池秀郎投手とともに二本柱として活躍し、1990年ドラフト会議にてヤクルト・スワローズから3位指名を受け入団。
入団当初は先発投手として期待をされたが、1993年5月2日の読売ジャイアンツ戦でプロ初セーブを記録し抑え投手へと転向し20セーブをあげました。
その後はヤクルトの不動の抑え投手として大活躍しNPBでは15年で286セーブ、4度の最優秀救援投手賞を獲得。
NPBだけに止まらず2003年11月にはメジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスへと移籍し活躍。
しかし2年目は序盤から救援失敗が続き8月に解雇されてしまい、直後にニューヨーク・メッツと再契約するもシーズン終了とともに退団。
2006年に入団テストを受け古巣のヤクルトに復帰するも2007年シーズンオフに自由契約となるも現役続行を目指し、2008年6月に韓国プロ野球のウリ・ヒーローズと契約し8セーブをあげるもオフに退団となる。
2009年5月には40歳7ヶ月でサンフランシスコ・ジャイアンツのとマイナー契約を結ぶ。
2010年1月には台湾プロ野球の興農ブルズと契約し抑え投手として前期優勝に貢献するもシーズンオフに契約打ち切り。
2011年1月には独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約し16セーブをあげるリーグトップの活躍。
2年目は監督兼任となり8月31日に同年限りでの現役引退を発表しマウンドを降りました。

現役引退後は野球解説者をしていたのですが、2014年シーズンからヤクルト・スワローズの一軍投手コーチとしてチームに復帰し、二軍監督も務め2020シーズンへ向けて一軍監督となりました。
どんなチームを作ってくるのか来年のヤクルト・スワローズが楽しみですね!

伝家の宝刀シンカー

高津臣吾さんの代名詞といえば『一度受け上がってから沈む』と評されるシンカー。
微妙に球速や落差を変えてくるシンカーを武器に凡打の山を築く投手でした。
握りや縫い目の掛け方を微妙に変えて投げてたんですねぇー。

抜くシンカーはチェンジアップのように全力で腕を振りながらもスピードが出ないシンカーでした。
バッターからすればボールが手元に来ないシンカーで、思わず空振りしてしまうようなボールでしたね。

珍プレー名物【大都会】

高津臣吾さんといえば僕の中ではもう一つ忘れてはいけないことがあります。
それはシーズンオフに放送されていた『珍プレー&好プレー大賞』でのアフロのカツラを被って歌う【大都会】
当時のヤクルト・スワローズは若手選手も多く、面白い選手が数多く在籍しており、高津臣吾さんもその一人。
珍プレー名物ともいえるくらい毎回アフロのカツラを被って大都会を歌ってました(笑)。
あの明るいチームの雰囲気も大好きだったんだよなぁー。

ニコニコ動画でもまとめられてました→https://www.nicovideo.jp/watch/sm3463444

今見ても懐かしくて笑っちゃうわぁー。
どんな楽しい野球が見られるか今から期待したくなっちゃいますね!
それでは、またっ!
 


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