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誰でも神様に味方になってもらいたいと思っている

今よりのちのことは、神の領分

前回

母親が、『いつまで生きれるのやら・・・』と言った時、その言葉からは、不安やあきらめの雰囲気は全く感じ取れなかった
何か人生を歩んできての素朴な感想というか、そんなふうにいつもと変わらぬ風だった
そんな言葉を聞くと、いつぞや見たテレビドラマのセリフ
『命は神様に、病気は先生に』を思い出しました
と書きました

『命は神様に』と『いつまで・・』は同じ雰囲気の言葉なんだと気付き
どちらも、

『今よりのちのことは、神の領分(だ)』という三浦綾子さんの言葉を想起させられました

誰でも神様に味方になってもらいたいと思っているだろうし
悪魔に微笑まれたくないと思っているだろう
「神様に微笑んでいてもらう」
「応援してもらう」

そのためには、いつも機嫌がいいことや不平不満を言わない、人を憎まないことなどいろいろあげられますね
それは「おまかせ」の精神だと思うんです


生きていて、思い通りにならないことありますね
思い通りにならないことの方が圧倒的に多いと感じます

「思い通り」というのはなんなのかな? 自分の頭で考えている目標だったり結果だったりを「思い通りに達成する」といったことだと思います
そして、いつもその目標や結果にたどり着けなくて悔しくて悲しい思いをしている
また、目標を達成できた、なになにが成功したとしても、次の瞬間には新しい目標や結果、成功が欲しくなり、チェレンジするも思い通りにならない状況になっていく・・・
その繰り返し、まさに人生はチャレンジの連続

このことって、小さいころから教えられてきた
小学校の新学期が始まって新しい担任の先生が決まり、今度の先生はどんな先生かな? クラスのみんなと仲良くできるかな? なんてドキドキして机に座っているときに、まず最初に先生から言われることが 『1学期の目標を、今配ったプリントに考えて書いてください』 ってありませんでした?

懐かしい思い出です
一所懸命頑張るのも、まず目標を掲げてからでした
目標が思い浮かばず、グズグズしていると目標を与えられたりすることもありました
字が下手だった私は『ひらがなを奇麗に書けるように』なんて目標を考える前に言われたこともありました

とにかく目標を立てるのが必要でした
それは思えば、長所を伸ばすより短所をダメージコントロールすることでした

目標を立てると、それに対しての進捗度合いとか達成度合いを評価されますよね
そんなことが延々と大人になっても続いています
いつまでも目標の連鎖の中に居て終わりがありません

目標があるから、成長できるんだ、してるんだの精神で小さいころからやってきましたが、ちょっと足を止めて周りを見てみると、その成長している大人や子供は暗い顔をしていませんか

そして、不平不満や愚痴、文句、ネガティブな言葉を心に思い、口にして不機嫌になってます
これって、「神様に微笑んでいてもらう、応援してもらう」の真逆なことをしてます

人事を尽くして天命を待つという言葉があります

やるだけやって、あとは神様にお願いするって 今までの中で感じてることあると思います

でも、悪魔に好かれる思いを持ったり、行動をとっていてはいつまでも幸せにはなれないなあ

目標を持つ、作るというのを少し考え直して、お願いされたことを一所懸命 淡々とやっていく
それによって「お任せ」の精神が生まれ

『今よりのちのことは、神の領分(だ)』に入って行くのだと思います
母親の「いつまで生きれるのやら・・・」は、神の領域のことだから神様にお任せと私には聞こえます

神様と出会う交差点はいつも身近にあると思ってます

Crossroads

 

 

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