こんにちはー。
週末少年野球コーチのじょびスポです。
今日は往年の名投手についてのブログです。
今は福岡ソフトバンクホークスの監督としてユニフォームを着ていますが、現役時代は凄かったんです。
優勝請負人【工藤公康】
今の野球少年たちは監督としての工藤公康さんしか知らない世代。
現役時代がどれくらい凄い投手だったのかを紹介したいと思います。
画像引用元Wikipediaより
工藤公康(くどう きみやす)
1963年5月5日生まれ
愛知県豊明市出身
身長176センチ 体重80キロ
愛知の名古屋電気高校(現:愛知工業大学名電高校)出身で高校時代は槙原寛己(大府高校→巨人1位指名)、浜田一夫(愛知高校→中日2位指名)とともに愛知三羽烏と呼ばれるほどの選手で1981年の第63回夏の甲子園大会にも出場。
2回戦の長崎西高校戦ではノーヒットノーランも達成し、ドラフト会議では西武ライオンズから6位指名を受け入団。
入団1年目から中継ぎで起用され、4年目の1985年から本格的に先発に転向し8勝3敗ながら最優秀防御率を獲得し、その後は2桁勝利を挙げる活躍を続け西武ライオンズのエースとなっていきます。
西武黄金期を支え、リーグ優勝・日本一にも貢献しました。
1994年まで在籍したが、秋の契約更改時に老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの球団から色よい返事が返ってこないことからFA権を行使し福岡ダイエーホークスへと移籍。
チームのエースとして君臨し、ダイエーの福岡移転後初のリーグ優勝・日本一にも貢献しました。
そして1999年シーズン終了後にFA宣言し読売ジャイアンツへと移籍。
読売ジャイアンツ移籍後も優勝請負人としてリーグ優勝・日本一へと貢献します。
43歳となった2006年シーズンオフに門倉健投手がジャイアンツへのFA移籍に伴い人的補償として横浜ベイスターズへと移籍。
2009年にはチームの若返りから自由契約となり2010年シーズンは埼玉西武ライオンズが獲得し16年ぶりに古巣復帰するもシーズン終了後に戦力外通告を受けるが現役続行の意思を表明し1年間浪人。
肩の故障が治癒しないことから2011年12月に現役引退を表明します。
現役引退後は野球解説者として活動していましたが、2014年11月1日に秋山幸二監督の勇退を受け、その後を引き継いで福岡ソフトバンクホークスの監督に就任し現在にいたります。
実働29年など最年長記録を多数打ち立て、優勝請負人として西武ライオンズ、ダイエーホークス、読売ジャイアンツにてリーグ優勝14回、11度の日本一を経験する凄い投手だったんですよ。
最速149キロのストレートと大きなカーブが特徴の投手で三振の山を築く素晴らしい投手だったんですよ。
ということで現役時代の動画をご覧くださいませ。
ノビのあるストレートとカーブのコンビネーションがエグイっすね。
城島健司捕手を育てるために打たれまくる
工藤公康投手の伝説として語られるのが相手に球種がバレバレのボールを投げていたということ。
細かすぎて伝わらないものまねでも披露されていました。
そんなまさか・・・って思うかも知れませんが・・・
実話なんです(笑)。
MLBにも移籍したこともある城島健司捕手を育てるための行動だったんですね。
打たれると分かっていても城島健司捕手のサインには首を振らずに投げ、打たれた後に反省会を行い育て上げたんですね。
監督には怒られたそうですが、それでも城島捕手を育てるんだという強い信念で投げ続けたんですね。
そのおかげで城島捕手は日本を代表する捕手へと成長していき、MLBにまで辿り着くほどの選手になったんです。
野球への取組と自分の身体に対してとてもストイックだったのも印象的。
長い現役生活を送るためには節制を重ねていたんですねぇー。
ということで、工藤公康投手の現役時代のドキュメンタリー動画をご紹介しちゃいます。
長いですが、時間があるときに見てもらいたいとこです。
この時、37歳ですがここからさらに10年現役を続けたっていうのが凄いですね。
野球の奥深さを体現していたのかも知れませんね。
僕も43歳ですが、まだ進化できるかも知れないなと思っちゃいます。
こういう息の長い活躍をする投手がまた出てくることを楽しみにしたいと思います。
それでは、またっ!
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