こんにちはー。
週末少年野球コーチのじょびスポです。
少年野球チームでは球数制限もあり、一つのポジションではなく複数のポジションを守れるようにと練習しています。
まだ小学生ですから、一つのポジションにこだわり過ぎず選手の可能性も考えて練習させてあげたいなと思ってます。
できれば全てのポジションを守れるくらいの選手になって欲しいなって思ってます。
今日は過去のプロ野球選手で究極のユーティリティープレイヤーと呼ばれた木村拓也選手のご紹介です。
野球界のキムタク【木村拓也】
日本を代表するアイドルであり俳優のキムタクこと木村拓哉さん。
野球界に同姓同名の木村拓也という選手がいました。
野球界のキムタクとして記憶に残るプレイヤーでしたね。
画像引用元 文春オンラインより
木村拓也(きむら たくや)
1972年4月15日ー2010年4月7日(享年37歳)
宮崎県宮崎郡田野町出身(現:宮崎市)
身長173センチ 体重75キロ
宮崎県立宮崎南高校時代は1年時に夏の甲子園出場、3年時春の選抜大会に出場し、高校通算35本塁打の強肩強打の捕手として活躍。
1990年オフに捕手としてドラフト外で日本ハムファイターズに入団するが、本職の捕手として出場機会に恵まれなかったことから、1992年には外野手に転向。
1994年オフに長冨投手とのトレードで広島東洋カープへと移籍し、正田耕三選手の後釜として期待され内野手としてもプレーすることに。
1996年からはスイッチヒッター転向に取り組み、2000年以降はレギュラーとして活躍し、主に二塁手や外野手として活躍しました。
2004年にはアテネオリンピックの野球日本代表に選出され銅メダル獲得に貢献。
2006年シーズンになると若手起用の方針により出場機会が減り、シーズン途中の6月5日に巨人とのトレードで移籍。
出場機会を求めての移籍なのに戦力の整っている巨人だったという心配をよそに、途中出場から代打や代走、守備固めにと活躍。
以降は、主に二塁手として活躍し、途中出場でもどこでも守れるユーティリティープレイヤーとしての長所を活かして2009年シーズン終了後に現役引退となりました。
翌2010年シーズンからは途中移籍組にも関わらず、巨人の一軍内野守備走塁コーチに就任。
生え抜きを大事にする巨人の中で、人間性を認められてたんですね。
しかし、2010年4月2日の広島カープ戦の試合前のシートノック中に突然倒れ、病院へ救急搬送されるも4月7日にクモ膜下出血のため惜しまれつつ静かに息を引き取りました。
ユニフォーム姿でホーム付近に倒れ、救急車で運ばれていく姿が衝撃的でした。
しかし、いつまでも僕ら野球ファンの記憶の中に永遠と残っていくことでしょう。
チームのファンだけでなく、野球ファンからも愛された素晴らしい選手だったんですよ。
誰からも応援される選手
ここまで長く書き過ぎてしまったのですが、本当に書きたかったのはここ。
先日、楽しみにしているYoutubeチャンネルで元NPB審判の山崎夏生さんが、木村拓也さんのことを話されていたんです。
木村拓也さんとのエピソードは6:30〜あたりからですが、とても良い話だったんで全部見ていただきたいとこです。
ドラフト外からプロ入りし、一生懸命に努力を重ね、その姿に周りが応援したくなる選手になっていったんですね。
どうやったら試合に出ることができるのか?チームにどう貢献できるのか?
その結果がユーティティープレイヤーの道だったんですね。
ひたむきに一生懸命努力する姿を人は応援したくなるんですね。
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究極のユーティリティープレイヤー
なんどもユーティリティープレイヤーと書いていましたが、象徴的な2つの出来事があります。
1つはアテネオリンピック野球日本代表に選ばれたこと。
当時の日本代表は各チーム2名以内の選出という申し合わせ事項がある中、カープからは黒田博樹投手と木村拓也選手。
木村拓也選手はセカンドやセンターに交代出場する機会の多いプレイヤーでしたが、オリンピックではベンチ入り可能人数が少ないため、複数のポジションを守れると重宝され選出されました。
試合出場だけでなく雑用係やブルペンキャッチャーとしてチームの裏方の仕事を手伝いメダルに貢献したんですね。
もう一つは2009年9月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦での捕手起用。
この試合、先発グライシンガーの相性を考慮して捕手は鶴岡選手で、正捕手・阿部慎之助選手は一塁手として出場し、7回表の守備で交代。
鶴岡選手も9回表から加藤捕手に交代し、試合は9回裏に巨人が同点に追いつき延長戦に突入。
11回裏に打席に入った加藤選手が頭部に死球を受けて退場すると12回表を守る捕手がいないという緊急事態に。
絶体絶命のピンチを救ったのが木村選手で、約10年ぶりの捕手としての出場し3人の投手をリードし見事に無得点で守り切りました。
ドラフト外からプロ入りして18年、様々なポジションで出場した試合数は1523試合。
打率も3割を超えたことは一度もない選手が、ここまで長く現役選手を続けられたのは試合に出るために、チームのためにと一生懸命に努力と準備を重ねてきたこと。
華やかな野球人生ではなかったかも知れませんが、名脇役として野球ファンの心に残る名選手でした。
それでは、またっ!