こんにちはー。
週末少年野球コーチのじょびスポです。
週末の試合・練習で最新バットの飛距離にドン引きした僕です。
ビヨンドマックスレガシーの飛距離と打球の速さは本当にありえへんと言いたくなるくらい。
高反発バットはイイんだか悪いんだかって感じですが、この辺は自己判断でって感じですね。
甲子園5連続敬遠という伝説を残したホームランバッター
今年もドラフト会議にて高校生でドラフト1位指名を受けた選手もいましたね。
素材として魅力的な選手が多かったのですが、開幕一軍で即戦力というよりも育成型かなと。
そんな中、高校生でドラフト1位指名を受けて1年目から活躍したホームランバッターのご紹介です。
読売ジャイアンツで活躍した後にMLBの名門ニューヨークヤンキースでも活躍した松井秀喜さん。
ドラフト前の夏の甲子園でも強打者として伝説を残しました。
星稜高校の4番打者として出場した松井秀喜さんが5打席連続敬遠。
明徳義塾の馬渕監督としては、それくらい怖い打者だったんですね。
後にも先にもこんな選手は松井秀喜さんしかいませんね。
上原浩治さんのYouTubeチャンネル雑談魂で当時を振り返って語ってくれてました。
こんな風に当時の心境を聞けるなんてYouTubeって凄いし、ありがたいなぁって思いますね。
天性のホームランバッター【松井秀喜】
松井秀喜さんを知らない野球少年のために少し紹介しておきます。
松井秀喜(まつい ひでき)
1974年6月12日生まれ(47歳)
石川県能美郡根上町(現・能美市)出身
身長186センチ 体重95キロ
体格が非常に大きかったため小学校1年生の時に3年生以上で構成される地元の根上少年野球クラブに特別に入団をさせてもらうも、監督の指示などが理解できず一旦野球を辞めてしまいます。
その後、野球に打ち込む兄に触発されて小学5年生の夏に再び入団し本格的に野球をスタート。
笑ったのが、もともと右打ちだったがあまりにも打球を飛ばすために兄とその友人が打てなくする目的で強引に左打ちを勧めたこと(笑)。
これが後の左のホームランバッター松井秀喜を作ったんですね。
中学入学時にすでに身長170センチ・体重95キロに達しており、2年夏から投手に転向したが、通算打率6割超えで飛距離も130mに達したと言われています。
高校は石川県の強豪・星稜高校に入学し1年時から4番を務めるほどで甲子園にも出場しました。
高校通算打率.450、60本塁打を記録し、練習場のライトフェンス後方に『松井ネット』と呼ばれる特別ネットが取り付けられるほどの飛距離を誇りました。
1992年ドラフト会議にてドラフト1位で読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・阪神タイガース・福岡ダイエーホークスの4球団競合指名を受け抽選の結果読売ジャイアンツに入団。
プロ入り後は外野手へとコンバートしますが、開幕は二軍スタートとなるものの打ちまくり1993年5月1日のヤクルト戦にて7番左翼手で一軍デビューを果たします。
セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放つ活躍を見せました。
2年目以降は外野手のレギュラーとして、そして巨人の四番打者として成長を重ね、首位打者1回(2002年)、本塁打王3回(1998年、2000年、2002年)、打点王3回(1998年、2000年、2002年)、最優秀選手賞3回(1996年、2000年、2002年)、ベストナイン8回など様々な賞を獲得する日本の偉大な選手となりました。
NPB時代の強烈な本塁打動画をご覧くださいませ。
そして2002年11月1日にFA権を行使してMLBへの挑戦を表明し、名門ニューヨーク・ヤンキースへと移籍します。
初年度からオールスターにも選ばれるなどの活躍をみせてくれました。
NPBにいた頃よりも本塁打は減ってしまいましたが、得点圏打率はチーム2位となるなど勝負強さを発揮し、ヤンキースで7年間活躍。
2010年シーズンはロサンゼルス・エンゼルス、2011年はオークランド・アスレチックス、2012年はタンパベイ・レイズでプレーするも調子が上がらず2012年12月27日に現役引退しました。
現役引退後は国民栄誉賞の受賞などもあり、2015年からはニューヨーク・ヤンキースGM特別アドバイザーとしてアメリカで活動をしています。
生活拠点がアメリカなため日本のメディアに出ることはほとんどなく、野球ファンとしてはちょっと寂しいです。
そうやって考えると上原浩治さんが雑談魂でトークをしてくれてたのって奇跡的ですね。
またいつかユニフォーム姿を見られるのを期待しながら待ちたいと思います。
それでは、またっ!
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