Black Magic Woman
この ブラックなマジカルなウーマン という雰囲気がいい曲 中ヒット!
サンタナさんが大ヒットさせたおかげで世の中に知れ渡ったのは良かった
60年代にこの曲があったことが凄いと思う イギリス人のピーター・グリーンさんだから出来たブルースなのか・・
だけどその後、上手くソフトロック路線に行けたなあと当時思った
魔法ってほんとにあるのかな?
あるのならワクワクするが、使ってはいけないこともある
人生は四季
ヒトの人生は四季に例えられることがある
そうか?そうなのか 春夏秋冬
春が過ぎれば梅雨を過ごして夏が来る、暑さを生活の知恵でしのぎしのぎお盆を過ぎたくらいから朝夕の寒暖差が気になり始め、秋になり空が高いと上を向けば山や路の樹木は幹から栄養を閉ざされた葉たちが生き抜いた証を見せつけるように色とりどりの色彩を披露する、気温は急激に下がり始めあっと言うまに冬が来る
人生はこの後に集大成を向かえる・・となる
季節は、続きがある
閉ざされた冬の厳しさの毎日の中で あるときふと肩の力を抜いていることに気づく、地からは小さいが大きな力を秘めた新しい息遣いを感じ春がやってくる
季節はまた巡ってくる
人生は一度きりの線なのだが、四季はまた巡り来る輪
ものは考えようだが、四季に例えるとき 心に無理してないか
人生も前世、現世、来世だっけ 輪廻転生という考え方、教え?がある 輪という漢字がリンクするから、四季のループと輪廻転生は宇宙の現象として同じグループにあるのか 宇宙現象だからそれを四季の巡りと相対させればいいのか
自身の命を思うとき、前世のことを考えたことはあるか?来世のことを考えたことはあるか?
今は人生は、二度と戻れない分かれ道の連続した一方通行 と捉えている
この先、分かるときが来るのだろうか
時間は、ヒトが作り出した概念、だからこの世で時間というものを手に掴むことは出来ない 時間はそもそも無いんじゃないか 見えないし
じゃあ今見えているのは何? 今見えてる現実は?
じゃあ10年前の20年前のあの時は何? あれは過去というものでもう存在していない
存在してないということは、無い
来年の1月に ある式典に呼ばれている
その時にひとことスピーチを依頼されている、その時に着る礼服も用意しなきゃならない、今持っている礼服はもう古くて重くカラダにも合わなくなってきているので新調したい、久しく正装用品の売り場に行ってない、今の礼服で軽いのはあるだろうか?巷ではいろんな機能を追求した生活用品がどんどん出てきているので期待したい
1月26日までまだ時間がある 40日以上ある その日はまだ来ていない
時間って長さなのか、空間なのか 目で見えるのは二次元の紙のカレンダーに書かれた数字 1月26日はまだ先の日だからまだ来てない 無い
1月26日が来たとき、これを書いている今日はもう過去 無い
今日を生きるって結構難しい 昨日に引きずられてても昨日はもう無いし 明日を不安に思っていてもまだ来て無い
個性的
還暦を過ぎてくると、ヒトはより個性的になっていく のか?
若い時のように、昨日に引きずられたり、明日を憂いだりするのが減ったのだろうか、忘れて行ってるような気がする ボケたのではなく忘却という能力が増してきている
個性的になった分だけ大事にするもの捨てるものを上手にして生きていくことが大事だと思う
量より質と言うものなのか
食べることでも昔のようになんとか定食に好物をもう一品注文して、ああその前にビール持ってきて・・・ ああ美味しかった! なんてこと出来なくなり、そのなんとか定食も これ全部食べ切れるかな?なんて心配するときも出てくる
そう言えば、宮崎市へ行ったとき おぐら本店というお店に行ってチキン南蛮の定食を頼んだ、その時いつものようにビールも注文しいい気分になってるとことにチキン南蛮が、そのボリュームにびっくりした
タルタルソースたっぷりのチキン南蛮もごはんも付け合わせのナポリタンとキャベツの千切りもおいしかったが、まさに途中からこれ食べきれるかな・・ということになって、まわりを見渡すと皆さんペロっという感じで、あの時のショックは今でも覚えてる
ほんとに美味しかった、また食べに行きたいお店
それからというもの、外食のときはメニューの品がどれくらいのボリュームなのか聞けるお店では尋ねたり、そうじゃ無いときはまわりのお客さんのをそっとみたりして確認するようになった
個性的になった
人付き合いもそうだ
老人はもっと街へ出て社会とつながろう、ヒトの輪を広げよう、それがボケ防止・健康増進の秘訣なんていう本もチラホラ見かける
そういった本は科学的な根拠があるモノも多く、そうなのか と納得する部分もたくさんある
しかし、無理してないか?
人付き合いも質でいいと考えるヒトも居る、自身がそうだが
人生が四季で今が秋なら、これから冬に向かうわけだが、冬のその先にまたくる春を待てばいいと思う また生まれ変わって新しい芽になってというのじゃない
時間という概念で考えてしまうと、あと何年生きれるかというカウントダウンになって行き、持ってるモノを嫌だけど無くしていくになるが
命は自分で決められないものとして、とりあえず冬に入ってその先の春が来たとき、捉えようがない時間に縛られないで、今という現実を一所懸命生きて、またその先も昨日の現実を捨て、その日の現実を生きる、その繰り返しが個性的で幸せな命の使い方だと感じる、もともと持ってないのだから
この原子などが集まって出来た塊のカラダもまた違う形になるのだから
違う形になったらオレはオレなのか、オレではない何かなのか?