生きていくには、無理はしなくていいと思う
『いつまで生きれるのやら・・・』 我が親が言い放った言葉
それだけを切り抜くと、何が起こったんだろう?とか、自棄気味の映像が見えるかも知れないですね
先日、いつもの介助のために実家に行ったときの会話の中で出てきた言葉
高齢になっても本人が望むように自分の家で暮らしてもらってる
それもある程度のことは自分でするという前提がある
時間はゆっくり過ぎていきますが止まってはいない、だんだん出来ることが一つまたひとつと減って行き
たまに『あれをやることが面倒くさくなった』とか、やることがあっても『まあいいや』という気分になると言うが、本人はあまり気にしていないように見える
何か淡々と生きてるように見える
長生きをしていく見本のようなものなのかとも思うときがある
長生きをする人は 「くよくよしない人」といわれることがありますね
我が親は、幼少のころ、それこそ昭和の初期に両親が他界して親せきの家で育ったと聞く
妹がいたのだが、それぞれ別々の親せきの許に預けられることになった
ある日、妹が引き取られた家に会いに行ったとき 『もう会いに来ないでくれ』 と言われたという
天涯で二人っきりの肉親に会いに行って言われたのがその言葉
その引き取り先の方も妹さんのことを慮っての言葉だったのかも知れないが、その昔ばなしを聞いた時、その妹さんは優しくしてもらっていたのだろうかとかいろいろ考えて、何とも言えない気分に返答に困った
妹さんの話も子供のころの話もあまりしない人だったので、それ以上のことはあまり知らないし、聞かずに今に至っている
その後、戦争が始まり終戦を迎えることになるが、ひょっとしたら想像を超える人生を送って来たのかも知れないのに
何か淡々と生きているように見える
そう、「くよくよしていない」
時代背景がそうだったように「くよくよしてて」も始まらないという精神になったのか
いや、そうじゃ無い気がする
この人は、「くよくよしない人」なんだと思えるようになってきた
人は、歳を重ねるごとに少しずつ被っているものが剝がれて行き、研ぎ澄まされ本来の自分になって行くという、いわゆる本性が出てくる
この人の本来の自分は、「くよくよしない」のだと思う
だから、どんなに歳をとっても歳をとったことに文句を言う訳でなく、何かしら出来ないことが増えても落ち込むことも無く
「まあ、仕方ない」と淡々と生きているように見える
その親が、『いつまで生きれるのやら・・・』と言った時、その言葉からは、不安やあきらめの雰囲気は全く感じ取れなかった、何か人生を歩んできての素朴な感想というか
そんな言葉を聞くと、いつぞや見たテレビドラマのセリフ
『命は神様に、病気は先生に』を思い出した
「Dr.コトー診療所」のある一話で「あきおじ」が言った言葉です
そして、「あきおじ」が残した手紙
『夏 涼しくて 冬 温かい わしの自慢は 西瓜と藁草履 人生で このふたつ』
記憶に残るセリフです
『いつまで生きれるのやら・・・』 にあきおじの手紙がなんとなく重なった
自分の人生への悔いは少ない生き方だったと振り返っているように見えた
そう思っているから長生きなんだろう
Echoes